まずは『田丸城跡』を散策しました。
「足圧ボディケア三重」の大西です。
4月18日(日)の10時~12時半まで、『玉城町立玉城中学校』の陸上部に行って来ました。
顧問の先生には、いつも大変お世話になっております。
ありがとうございます😊
9時40分頃学校に着いたので、少し散策しました。
【田丸城跡】
住所:三重県度会郡玉城町田丸114-2
田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房(ちかふさ)が、愛洲(あいす)氏や度会氏などの援助を得てこの田丸山に城を築いて南朝方の拠点としたことが始まりとされている。
南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては最重要路線であり、田丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。
室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村の多気に館を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配の拠点となっていた。
天正3年(1575)、織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄(のぶかつ)が、田丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を建て田丸城の誕生となった。
天正8年には、この天守閣は炎上した。
江戸時代には紀州藩主徳川頼宣(よりのぶ)の家老久野宗成(くのむねなり)が田丸城主となり、久野家は代々城代を勤めた。
城は、明治2年(1869)に廃城となり、同4年には城内の建物は取り払われた。
(田丸城跡)
本丸虎口(ほんまるこぐち)跡です。
【田丸城跡本丸虎口(ほんまるこぐち)について】
虎口(こぐち)とは城内の各郭(くるわ)への入口のことである。
この場所は城の攻守の要となるので、石垣を築き通路を屈曲させるなど侵入する敵に対する防御のため、さまざまな工夫をこらしている。
ここから続く通路は平成14年度田丸城跡遊歩道整備工事に伴う発掘調査で確認されたものである。
石垣、門や建物の礎石、石組の側溝と石列があり、出土した瓦や土師器(はじき)片などから江戸時代のものであると考えられる。
これらのうち、礎石建物や石垣は、左の宝暦年間(1751~1764)の古図とも一致している。
(田丸城跡本丸虎口(ほんまるこぐち)について)
(本丸虎口(ほんまるこぐち)跡)
本丸跡&天守跡です。
【天守跡】
織田信雄が築いた三層の天守の土台が天守跡に残る。
(本丸跡&天守跡)
『玉城町立玉城中学校』は、三の丸跡に建っています。
凄いですね✨✨
(玉城中学校のグラウンド)
【門柱の由来】
この門柱は、旧田丸実業女学校の校門に使われていたものです。
昭和23年学校再配置によって実業女学校の跡に玉城中学校の前身である城東中学校が創立され、昭和38年にここ田丸城跡に移転するまで玉城中学校の校門として使用されていたものです。
(玉城町立玉城中学校)
「玉城町立玉城中学校」の陸上部で谷川流足圧を行いました👣
練習の合間に、陸上部の選手をほぐしました(30分×4名&15分×2名)👣
まずは、長距離の選手(3年生)をほぐしました。
(長距離の選手(3年生))
(長距離の選手(3年生))
(玉城中学校陸上部)
次に、100mの選手(3年生)をほぐしました。
(100mの選手(3年生))
3人目は、棒高跳びの選手です。
(棒高跳びの選手)
4人目は、400mの選手です。
(400mの選手)
5人目は長距離の選手(2年生女子)、6人目は100mの選手(3年生女子)を15分ずつほぐしました👣
『王富(わんふー)』さんでランチ🍜
足圧が終わってから、顧問の先生と“焼豚”が売りのラーメン屋『王富(わんふー)』さんに行きました🍜
住所:三重県度会郡玉城町山神500
営業時間:11:30~14:00、17:00~22:00
定休日:水曜日
(王富(わんふー))
僕は、“焼豚ラーメン+チャーハン(小)(税込1250円)”をいただきました。
ラーメンは、先生お勧め裏メニューの“ミックス(とんこつ+醤油)”にしました。
(焼豚ラーメン(ミックス)+チャーハン(小))
評判通り“焼豚”が、肉厚でやわらかくて、めちゃ美味しかったです😍
ご馳走さまでした&ありがとうございました😊